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「通訳者のひよこたちへ」更新のお知らせ [掲載]

「通訳者のひよこたちへ」第424回がアップされました。
タイトルは『続けるために必要なもの』、
書籍紹介では「世界の本好きたちが教えてくれた 人生を変えた本と本屋さん」
(ジェーン・マウント著、清水玲奈訳、X-Knowledge、2019年)を取り上げました。

https://www.hicareer.jp/inter/hiyoko/16687.html

お時間がございましたらご一読いただければ幸いです。

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ヤンソンス・インタビュー [日々の暮らし]

英語を学んでいて良かったなあとつくづく思うとき。
それは自分が「知りたい」と強烈に思ったことを
知りえた時です。必要としていた情報にありつけたり、
思わず笑みがこぼれてしまうような楽しい話題に
触れられたりという状況もその一例です。

1993年の留学中に指揮者マリス・ヤンソンスの振りを
見て感動して以来、私の英語「学習」というのは、
ひとえにヤンソンスのインタビューを読んだり聞いたりしたい
という思いと密接に関わっていきました。

留学を終えて94年に帰国してフリーランス通訳者になってからは
「いつかヤンソンスの通訳をしたい」と思ったことも
ありました。あいにくそのチャンスは到来せず、
実現はしなかったのですが、それはそれで良かったのかも
しれません。

と言いますのも、もしそのようなお話があったとしても、
私には素人レベルの音楽知識しかありません。
ヤンソンスの述べることを100パーセント深く理解するほどの
音楽への造詣が残念ながらないのです。そのような状況で
通訳のお話を頂いたとしても、かえって中途半端な
訳出になってしまうでしょう。それではあまりにも
申し訳ないと思います。

さて、BBC Radio 3ではヤンソンスが亡くなった直後に
追悼番組を放送していました。Music Mattersという
番組内のインタビューです。

https://www.bbc.co.uk/programmes/m000c2rn

ヤンソンスはスターリン時代のレニングラードで
育った経験についてこう述べています:

「もちろん大変な時代ではあった。けれども
素晴らしい音楽教育を受けられたし、偉大な
音楽家たちに触れ合うことができた。
音楽の質を求め続けるような環境にいられた」

旧ソ連といえば非常に厳しい環境下にあったはずです。
それはそれとして、当時のソ連の芸術教育を受けられたことへの
感謝を口にしていました。

ラフマニノフ交響曲2番やショスタコーヴィチ交響曲10番など、
ヤンソンス・ファンにとっては嬉しい曲も挿入されています。
今後1年ほどネット上に公開されているそうです。
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「あとで」の自己流定義 [日々の暮らし]

何か一つのことをしながら「あ、そう言えば」と
思うことがあります。たとえば歯磨きをしながら
「あ、洗面台が汚れてる」「鏡が曇ってきた」
という具合です。今、その瞬間は「歯磨き」を
していますので、順番としては

「歯磨きを終えたら洗面台を掃除しよう」

「歯磨きを終えたら鏡を磨こう」

ということになります。

しかし!

それと同時にこうも思ってしまうのです。

「ま、でも週末が我が家の『掃除デー』なのだから、
別に今日洗面台の掃除をしなくても、いっか~」

「鏡、確かに曇っているけれど、別に不自由しないから、
磨かなくてもいいかも」

つまり、「掃除する・磨く」VS「今やらなくても、まあ良しにしよう」
の2択ということになります。端的に言えば
「あとで良いや」という思いの方が私の場合、圧倒的に
強く出てきてしまうのですね。

「あとで」というキーワード、なかなかパワフルです。
と言いますのも、それこそ「あとで」の言葉の「後」に
「今、忙しいし」「すぐ出かけないといけないし」
「やらなくても生きていけるし(!)」という具合に
それはそれは多くの言い訳が潜在的に心の中で
浮上してくるからです。

では、やらないとどうなるでしょうか?

ハイ、そのまま放置されるわけですので、一歩も進まず。
そしてさらに悪化していきます。
洗面台であればますます汚くなる、鏡であれば
もっと見づらくなるといった具合です。

よって「あとで」という言葉を私は最近こう解釈しています。

「あとで」=「今」

数年前に「今でしょ」ということばがはやりましたよね。
「あとで」と思った瞬間、「今」取り組めば良いのです。

要は自分の中の「あとで」の定義を「今」に置き換える
ということになります。完璧をめざさなくても良いから、
とにかく「今」取り組むことを私は課しています。
先の例でいうならば「洗剤を出さないまでも、とりあえず
目立つ汚れだけでもティッシュでふく」「鏡の中で一番気になる箇所
だけでも磨いておく」という具合です。

これでだいぶはかどるようになりました。
それより何より、「おお、忙しいのによくやったねえ、自分!」
と内心自己評価アップ間違いなしです。
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理解者は意外なところに [日々の暮らし]

楽しいことや大変なことなど、生きていると色々なことに
遭遇しますよね。いつもポジティブに毎日ハッピーで
いられれば、これほど幸せなことはありません。
けれども様々な出来事に出会うのもこれまた人生。
「さっきすごーく嬉しいことがあったばかりなのに、なんで
その直後にこんなに大変なことが?」と感じることも
大いにありうるわけです。

身近な人が自分の気持ちに寄り添ってくれれば
本当に心強いと思います。共に喜んでくれる、
一緒に悲しみを共有してくれるなど、すぐ近くにいる人が
そうした波長を示してくれると、本人も救われることでしょう。

では、そうした「身近な共感者」は必ずいるのでしょうか?

私は「必ずしもそうではない」と思っています。
もちろん、理想はそうした「思いのシェアをできる人」が
すぐ近くにいることです。でも人間の価値観は人それぞれ。
たとえ家族であっても、物事のとらえ方や反応の仕方というのは、
こちらが期待している通りになるとは限らないのです。
異なる人間ですので、それが大前提です。
身近にいる分、自分が思う通りの反応をしてくれる「はずだ」と
思ってしまうからこそ、余計にそうならなかったときの
失望も大きくなるのだと思います。

むしろ、身近な人間にそうした期待を高めてしまうこと
そのものが、苦しみの源になるのだと私は感じます。
逆を言えば、自分の思いをシェアする相手を、
「遠い所」に求めても良いと思うのです。
案外そうした物理的・時空的距離が遠いところにいる人、
あるいは古典や書籍といったところから、
自分の思いとぴったりの慰めを与えられるかもしれません。

理解者は距離と時間を超えて意外なところに必ずいる。

そう思えるだけで、人は歩み続けられると思います。
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偶然と思えることが幸せなのかもしれない [日々の暮らし]

マリス・ヤンソンス氏が亡くなられてほぼ2週間が経ちました。
どなたかの訃報でこれほど衝撃を受けたことは私の過去を
振り返ってみても数えるほどしかありません。
高齢または長患いをしていた親戚など、
これまでお別れをしてきたことは何度もあります。ただ
その場合は、こちらもある程度覚悟ができていました。

ヤンソンスの場合、心臓に病気を抱えているのは私自身、
頭では理解していました。けれども、降板をしても
復帰してきたこれまでの経緯があります。しかも
76歳というのは指揮者の世界ではまだまだこれからです。
それゆえに、私の中ではもっと長生きして当然という
大前提で日々を送っていました。

だからなのでしょう。訃報はあまりにも突然過ぎました。

日本時間の12月1日夜、そのニュースが流れた直後、
ヤンソンスが指揮するドボルザーク「新世界」が
流れました。

実はこの曲に私は思い入れがあります。

私が生まれたのを記念して、父が「新世界」の
LPレコードを買ったと母が記した育児日記に
書かれているのです。当の父は今ではそのことを
すっかり忘れてしまっているようですが、
育児日記にはそう記されています。ゆえに私にとり、
「新世界」は特別の存在なのですね。幸い、ヤンソンスが
元気なころ、コンサートでこの曲を聴く機会もありました。

数日前の12月10日。夕食の後片付けを終えて
一段落ついた私は、久しぶりにラジオのNHK-FMをつけてみました。
あまりにも久々にラジオをつけたため、引き出しの奥から
ラジオのリモコンを取り出したほどです。

スイッチを入れると「ベスト・オブ・クラシック」
という番組をやっていました。ちょうど曲の合間でした。
その日は「2019年NHK音楽祭」のライブ録音を流しており、
演奏はフィラデルフィア管弦楽団でした。

そして次の曲の紹介がありました。

ドボルザークの「新世界」でした。

これもひとえに純粋な「偶然」だと思います。
「新世界」は日本でもポピュラーな曲ですし、
音楽祭の後半に流すにはちょうど良いプログラムでしょう。

けれども・・・と私はつい考え込んでしまいました。
あまりにもタイミング的に偶然過ぎると思えたからです。

いや、むしろ考えすぎなのかもしれません。私が
それだけ鋭敏になり過ぎているのでしょう。
すべてのことがつながって見えてくる、そんな
メンタリティにいるからかもしれません。

でも、こうも思うのです。

偶然と思えること自体が幸せなのかもしれない、と。

偶然によって私の心の中に安寧がもたらされたのは確かです。
亡きヤンソンスを偲び、今後私自身が
どのような人生を送るべきか考えるひとときが静かにもたらされたのです。

そのようにとらえると、偶然というのは自らに与えて頂けた
ありがたく貴重なひとときだと思えたのでした。
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NHK「世界へ発信!ニュースで英語術」掲載のお知らせ [掲載]

2019年12月13日放送分の翻訳・解説を担当いたしました。
タイトルは「“ながら運転”の罰則強化」です。

https://www.nhk.or.jp/snsenglish/news/n191213.html

どうぞよろしくお願いいたします。
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「すぐ使える英語表現」更新のお知らせ [掲載]

第213回は lick one's lips というフレーズです。

https://www.hicareer.jp/inter/housou/16694.html

どうぞよろしくお願いいたします。

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Happy Cookingの意味 [日々の暮らし]

過日亡くなられたGary Rhodes氏がずいぶん前に私に下さった
ポストカードには"Happy Cooking"と書かれています。
先日、その意味を自分なりに解釈する出来事がありました。

仕事と日常生活におけるあれこれのスケジュール管理が
そのときは行き詰っていたのです。突発的な仕事が
発生したのと同時に、家族の体調不良がありました。
当初私が立てていた計画をそのまま実行することが
不可能になってしまったのです。かなり綿密に立てていた計画で
あった分、一体何をどう修正・調整すれば周囲に迷惑を
かけずに済むか、途方に暮れていました。
どう頑張っても、どこかにひずみが出そうだったからです。

その日、差し当たってしなければいけなかったのは、
別の案件のスケジュール調整でした。
様々な出来事がこの日は一気に押し寄せてきており、
私の頭の中もだいぶ混乱していました。

その方とは電話でやりとりをしていました。ただ、
そうした状況でしたので、あまり私が
急いてあれこれ考えても埒が明かないの明白でした。
そこで私は先方に電話口でこう言いました。

「一旦お電話を切らせていただいて30分だけ
お時間をいただけますか?18時に必ずコールバック致します。」

このようにして一旦会話を終えたのです。

時刻は夕方。夕食の準備もせねばいけない状況でした。
その日の献立は「鍋料理」。鮭と鶏肉の豆乳鍋です。
「材料を火にかけ、沸騰したらあくをとる」と
レシピには出ています。電話を切ってから30分間、
半ばボーッとしつつ、けれどもスケジュール管理のことを考えつつ、
ひたすらあく取りをしました。取れども取れどもあくは
出てくるのですが、いつもであれば億劫に思えたあく取りも、
この日だけはかえってセラピー作業のように思えました。

そして一通りあくを取り終えた30分後。頭の中では
スケジュールに関する明白な結論が出ていました。
修正したスケジュールは、どなたにも迷惑がかからないような
工程となりそうでした。私は鍋の火を止め、
先方に電話をして、頭の中で描いた修正版を伝えました。
幸い先方も合意してくださり、無事に電話を終えました。

行き詰ってしまった時、当該のものとは全く関係ないことを
するというのは、案外名案が浮かぶのかもしれません。
今回の私がそうでした。と同時に、Garyが述べていた
Happy Cookingとは、料理の作業を通じて「幸せ」が訪れることを
意味しているのではないか、とも私は思ったのです。
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レッスンのご案内 [英語]

このたびアイ・エス・エス・インスティテュートにて
下記の講座を担当することとなりました。

「おもてなし通訳ガイドに挑戦!」
2020年1月29日水曜日 10:30~16:30

https://www.issnet.co.jp/courses/e_i_short.html#feature1

ご参加を心よりお待ち申し上げております!
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もうひと踏ん張りして計画通りに [日々の暮らし]

私は長年「月間カレンダー」と「1週間見開き」が
一体となった手帳を使っています。過去に何度か
「来年は趣向を変えて別のダイアリーを試してみようかな」と
「浮気」したことがあります。けれどもやはり使い慣れた
手帳というのは、体にしみ込んでいるものなのでしょうね。
今後変えるつもりはありません。それぐらい自分の一部となっています。

この手帳は4月始まりのもので、私の場合、大学で
教えていることもあり、この方が使いやすいと感じます。

この手帳を開くと、まずは月間の見開きページがあり、
続いて1週間の見開きが続きます。予定が入ると私は
月間カレンダーに書き込み、一週間のページにも転記します。
月末には翌月の月間と一週間のページがきちんと
合致しているかを確認しています。いわばダブル、トリプルチェックです。
と言いますのも、転記し忘れてしまい、危うく仕事に
穴を開けそうになった苦い経験があるからです。

毎日のやるべきことはすべてその日の箇所に書いておきます。
仕事のスケジュールだけでなく、家事などもすべてです。
項目の頭にはチェックボックスの四角を書き、仕上げたら
そこにチェック印を入れます。

一日の終わりにその日を振り返ります。チェックボックスすべてに
印が入る日は年に数回あるかないかです。忙しくて
後回しになってしまったもの、優先順位的に見てそもそも
やらなくても良さそうなものなど、色々と出てきます。
次の日に持ち越す場合はそのまま同じことを次の日の欄に
転記します。このようなやり方を10年以上続けています。

心身共にエネルギーにあふれている時は、多少タイトな
スケジュールでもこなせます。しかし人間は機械ではありません。
気乗りしない日、スタミナ切れの日など、当然ですが
起こります。突発的に他の業務が入ったり、家族の都合が
生じたりということもあり得ます。そのような時など
ついつい色々なことが後回しになりがちです。

けれども最近私は自分にこう言い聞かせています。
大変な時だからこそ、もうひと踏ん張りしてなるべく計画通りに
こなしていこう、と。

全てをやり遂げようとすると疲弊してしまいますので、
あくまでも「もう少しだけ」という次元で構わないのです。
それをやり遂げただけでも自己評価は高まりますし、
何よりも持ち越し分が減るだけで気分的に楽になります。

たとえば先日のこと。早朝シフトを終えて昼近くに最寄り駅に
戻ってきたときの私は眠気でボーっとしていました。
このままさっさと家に帰りたいなあと思ったのです。
けれども手元には大量の買い物リストがありました。

「うーん、一旦帰ってあとで出直そうかな。いやいや、
ここで頑張って買い物をしておけば後が楽なはず」

こう思ったのです。ですので予定通り買い物を終えて帰宅しました。

自宅に戻るや、家族が体調不良になったとの連絡が。
駅までお迎え→病院へ同行→薬局で薬の受け取り等々、
この日は慌ただしく過ぎていきました。

いやはや、あの時頑張って買い物をしておいて良かった!
あとひと踏ん張りがあったおかげで、その日の後半は
慌てずに過ごせたのでした。ふー。
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