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偶然と思えることが幸せなのかもしれない [日々の暮らし]

マリス・ヤンソンス氏が亡くなられてほぼ2週間が経ちました。
どなたかの訃報でこれほど衝撃を受けたことは私の過去を
振り返ってみても数えるほどしかありません。
高齢または長患いをしていた親戚など、
これまでお別れをしてきたことは何度もあります。ただ
その場合は、こちらもある程度覚悟ができていました。

ヤンソンスの場合、心臓に病気を抱えているのは私自身、
頭では理解していました。けれども、降板をしても
復帰してきたこれまでの経緯があります。しかも
76歳というのは指揮者の世界ではまだまだこれからです。
それゆえに、私の中ではもっと長生きして当然という
大前提で日々を送っていました。

だからなのでしょう。訃報はあまりにも突然過ぎました。

日本時間の12月1日夜、そのニュースが流れた直後、
ヤンソンスが指揮するドボルザーク「新世界」が
流れました。

実はこの曲に私は思い入れがあります。

私が生まれたのを記念して、父が「新世界」の
LPレコードを買ったと母が記した育児日記に
書かれているのです。当の父は今ではそのことを
すっかり忘れてしまっているようですが、
育児日記にはそう記されています。ゆえに私にとり、
「新世界」は特別の存在なのですね。幸い、ヤンソンスが
元気なころ、コンサートでこの曲を聴く機会もありました。

数日前の12月10日。夕食の後片付けを終えて
一段落ついた私は、久しぶりにラジオのNHK-FMをつけてみました。
あまりにも久々にラジオをつけたため、引き出しの奥から
ラジオのリモコンを取り出したほどです。

スイッチを入れると「ベスト・オブ・クラシック」
という番組をやっていました。ちょうど曲の合間でした。
その日は「2019年NHK音楽祭」のライブ録音を流しており、
演奏はフィラデルフィア管弦楽団でした。

そして次の曲の紹介がありました。

ドボルザークの「新世界」でした。

これもひとえに純粋な「偶然」だと思います。
「新世界」は日本でもポピュラーな曲ですし、
音楽祭の後半に流すにはちょうど良いプログラムでしょう。

けれども・・・と私はつい考え込んでしまいました。
あまりにもタイミング的に偶然過ぎると思えたからです。

いや、むしろ考えすぎなのかもしれません。私が
それだけ鋭敏になり過ぎているのでしょう。
すべてのことがつながって見えてくる、そんな
メンタリティにいるからかもしれません。

でも、こうも思うのです。

偶然と思えること自体が幸せなのかもしれない、と。

偶然によって私の心の中に安寧がもたらされたのは確かです。
亡きヤンソンスを偲び、今後私自身が
どのような人生を送るべきか考えるひとときが静かにもたらされたのです。

そのようにとらえると、偶然というのは自らに与えて頂けた
ありがたく貴重なひとときだと思えたのでした。
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