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トルストイ、そして亀山郁夫先生の文章 [日々の暮らし]

昨日のブログでトルストイのことを書きました。

数日前の日経新聞・書評欄にロシア文学者の亀山郁夫先生が
トルストイを取り上げておられました。

私は亀山先生が東京外語大で教鞭をとっておられるころから
文章を拝読しています。温かみのある文で、哲学的で、
読むたびに人生とは何かを考えさせられてきています。
先生は外語大を退官以後、名古屋外国語大学の学長を務めて
おられます。数年前に同大学で行われた通訳コンテストに
学生を引率したことが私はあります。そのとき、開会式で
亀山先生がご挨拶されたのを拝見し、大いに感激したことを覚えています。

日経の書評欄に出ていたのは、トルストイの民話
「人はなんで生きるか」(中村白葉訳、岩波文庫)です。
主人公の若者について、亀山先生ならではの分析がありました。
若者がその人生において得た「答え」について、
先生はこのように綴っておられます。

「では、若者が得た『三つの答え』とは何だったか。

一、人の心の中には何があるのか。答えは、愛。

二、人が与えられていないものとは何か。答えは、知識。

三、人は何によって生きるのか。答えは、愛。」

私はこの文章を読み、大いに考えさせられました。
コロナの状態がずっと続く中、自分の生き方を
ちょうど考えていたからです。

特に二番目の「知識」の部分。

これを私は「知識」というよりも「知恵」と置き換えて
考えています。

と言いますのも、今の時代、誰もがたくさんの情報を
持ってはいます。けれども、そうした大量の知識を
うまく使いこなせず、むしろ情報に振り回されて惑わされて
心を痛めて疲労困憊しているという印象を抱いているからです。

むしろ肝心なのは、知識ではなく、限られた情報であっても
そこから生きる知恵を得て、前に進むことだと思うのですね。

亀山先生は、次のようにも述べています。

「思うに、現代の科学は、ひたすら人間の延命に取り組み、
この物語でいう『知識』の解明に邁進してきた。
ところが、そんな挑戦を嘲笑うかのように、21世紀の『神』は、
日々人類を弄び、中世さながら『死の舞踏』を現出させている。」

まさに今のコロナを指しておられます。

「たとえ信仰を持たぬ身でも、『慈しみ深く』だけは、
明日からでも実践できそうな気がする。」

先生はこのように締めくくっておられます。
私自身、身近な人たちへの「慈しみ」を大事にせねばと
改めて思ったのでした。

(『19世紀ロシアの文豪の民話 科学万能の現代 
驕りに警鐘』亀山郁夫、「半歩遅れの読書術」
日本経済新聞2020年7月18日土曜日朝刊)
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