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 [日々の暮らし]

家にどのような色を持ち込むか、ここ数年、試行錯誤の状態が
続いています。なるべくスッキリ暮らしたいので、
あまり色が増えてしまうと、視覚的に騒々しく
感じてしまうためです。台所家電は白やシルバーが
殆どとなりつつあります。

ちなみに台布巾やスポンジは、あっという間に
汚れが移ってしまいます。どうしようかと
考えていたところ、目立たない黒にすれば
良いのではと思い立ちました。

今はインターネットで何でも調べられる時代。
早速検索したところ、ありました。
黒のスポンジに黒の台布巾です。
取り寄せてみたところ、これまたオシャレな一品です。

もちろん、目立たないからと言っても消耗品ですので、
定期的に取り換えねばなりません。それでも
「何だかシミが付いてきたなあ」「汚れが
目立ってきたかも」とモヤモヤした気持ちで
使い続けることがなくなりましたので、
私としては大いに満足しています。

よって、我が家の棚には黒のスポンジと台布巾が
予備で常備されています。

ここでblackを使った英語表現を少々:

swear black is white (目的のためには)手段を選ばない
black bun アイルランドで新年に食べるフルーツパイ
black sheep やっかい者

他にもたくさんあります。ご興味がある方はぜひ辞書でどうぞ!


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ビートたけしさんの言葉 [日々の暮らし]

イギリスで留学していた時、寮の近くに独立系の
映画館がありました。名作やドキュメンタリーを取り上げており、
人気でしたね。当時は小津安二郎監督や黒沢明監督が
改めて注目されており、私もその時初めて「東京物語」と
「生きる」を鑑賞したのでした。

日本学を専攻していた寮の友達に「好きな監督は?」と
尋ねるとTakeshi Kitanoとの答えが返ってきました。
そう、ビートたけしさんです。

私にとってはお笑いのイメージが強かったのですが、
友人にとっては映画監督という認識でしたね。
たけしさんの作品を観て日本への興味が募り、日本学を
大学で学ぼうと思ったと教えてくれました。

さて、そのビートたけしさんに関する記事が日経新聞に
先日出ていました。小説を発行したという話題です。
意識したのは又吉直樹さん。又吉さんが直木賞を
取ったのだから、自分にも小説の才能があることを
示したいと奮起したそうです。

私がその記事で注目したのは、小説のことよりも
むしろデジタルに対するたけしさんの考えでした。
次のように述べています:

「デジタルは嫌い。俺も仕方なく持っているが、
スマートフォンは世界中の人に手錠をかけるようなものだと
思っている」

実は私がいまだにデジタル機器にもろ手を上げて
賛成できないのは、たけしさん同様の考えがあるから
なのですね。もちろん長所は理解しています。けれども
常にどこかと、誰かとつながり続けているのは
息苦しく思えてしまうのです。

便利さと不便さへの感覚は人それぞれです。
だからこそ、「皆がそうしているから」という思いではなく、
「自分はどうしたいか、どういうスタンスを取りたいか」
をじっくり考えることが、生きる上で必要だと
感じています。

(「文化往来 ビートたけし新刊、きっかけは又吉の活躍」
日本経済新聞 2017年10月2日月曜日朝刊)
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棚・平面・隙間・カバー

「どうも最近今一つ調子が出ないなあ」というとき、
私は片づけを始めます。具体的には「不用品を捨てる」
という行為です。新陳代謝が悪くなると体調不良に
なりますが、モノもそうだと思うのですね。
日時を決めて行うのではなく、思いつきで始めることが
殆どです。ただ、完璧を求めるとくたびれてしまいますので、
あくまでも自分なりの基準で行うのが良いと考えています。

私の中の基準では「1年間使わなかったもの」は
処分の対象です。台所用品も洋服も装飾品もすべて
そうとらえています。どんなに大枚をはたいて入手
したものでも、1年間未使用というのは何らかの理由が
あったため、使わなかったと割り切っています。
幸い我が家の近くにはチャリティーショップがあり、
電話一本で寄贈品を引き取りに来て下さるので、
まだ使えそうなものはそちらに回すようにしています。

先日読んだ片づけ関連の本に興味深い記述がありました。
それによると、人間というのは棚や平らな場所、隙間などが
あると、つい何かを置いたり詰め込んだりしたくなる
のだそうです。引っかける場所も同様で、フックしかり
椅子の背もたれしかりです。また、「紙袋」「お菓子の箱・缶」
「ショップの紙袋」も保存したくなる対象と書かれていました。

さらに「目の届くところにあるものは使うが、
見えないところにあるものは使わない」という記述もありました。
「いつか使う」と思って所蔵していても、要は
out of sight, out of mind なのですよね。

ちなみにもう一つ、私が鬼門に思うのは「カバー」と
「敷物」です。一見オシャレに思えますが、
カバーをかけると見えなくなり、使用頻度が下がる
恐れもあります。もっともスマートフォンカバーのように
商品を保護するうえで助かるものもありますので、一概にすべて却下
というわけではありません。

随分前にお邪魔したお宅では、新品の革張りのソファーにカバーが
かかっており、その上に敷き布・・・の上にさらにタオル
という具合になっていました。「平面版マトリョーシカ」です。
本来の素材の美を味わうためにも、カバーは私にとって鬼門です。
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直角 [英語]

敬愛する指揮者、マリス・ヤンソンスのCDが
大学図書館にあったので借りてきました。
今教えている大学には数年前から出講しているのですが、
CDも館外貸し出しができたのですね。てっきり
DVD同様、館内鑑賞のみと思っていましたので、
私にとっては嬉しい発見でした。

今回借りたのは、ロイヤル・コンセルトヘボウと
ヤンソンスのマーラー「交響曲第1番」です。私は
オスロ・フィルとヤンソンスの同曲CDは持っているのですが、
そちらはずいぶん前の録音。コンセルトヘボウの
演奏も基本は同じ路線ですが、ヤンソンスの円熟味が
表れていると感じました。

ところでもう一つ興味を抱いたのがCDケースです。
普通のケースの四隅は角ばっていますが、
コンセルトヘボウとのシリーズはケースの角が
丸いのですね。直角のケースをわざわざ丸く成型
してありますので、それだけのためにケースを作るのも
手間がかかっているのではと思いました。

この「丸角」を機に、日常生活で意識してみると、
様々な物が実は角を滑らかにしてあることがわかります。
たとえば電子辞書の角も丸いですし、携帯電話も
そうですよね。

そういえば以前、スポーツクラブのスタッフの方と
話していた時、面白いエピソードを聞きました。
館内に貼り出す「お知らせ」についてです。
そのお店ではお知らせをパウチ加工して貼り出すのですが、
必ず四隅の角を切り落としてから貼るのだそうです。
コーナーが直角のままだと手を切ったりしてしまい、
危ないからです。

ところで英語で「恐怖症」はphobiaと言います。
「先端恐怖症」はaichmophobia。語源はギリシャ語の
aichme(先端)だそうです。「直角恐怖症」という単語も
あるのかネットで探したのですが、今一つ見つからず。
直角もある意味では先端のようなものですので、
aichmophobiaが感覚としては近そうです。
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新聞がなくなると? [日々の暮らし]

先日、興味深い新書を読みました。
「新聞消滅大国アメリカ」(鈴木伸元著、幻冬舎新書、
2010年)です。今から7年前に出たものですが、
すでに本書に述べられていることは
大きな社会問題として現存していると感じました。

中でも強烈に印象に残ったのは次の部分です。
新聞がなくなると腐敗が進むというくだりで、
著者はプリンストン大学が発表した2009年の
論文を以下のようにまとめていました。

「*報道されないという安心感によって、政府の腐敗が進む

*ジャーナリズムの側も、経営を維持するため資金の
出し手におもねるようになる

*国際情勢を、アメリカの新聞社が独自に取材しなくなり、
国の安全保障が脅かされる

*地方紙がワシントン支局を次々と閉鎖している。
これによって地方の視点から連邦レベルの動きを
見ることができなくなる

*新聞社の閉鎖により、言論の多様性が失われる

*新聞の衰退は、アメリカの民主主義を崩壊させる」

これはアメリカに限らず、新聞が衰退する地域において
生じてもおかしくないと感じます。非常に考えさせられた
一冊でした。
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コラム更新のお知らせ [各種連載]

「通訳者のひよこたちへ」第325回がアップされました。タイトルは
"Please, not now!" です。書籍紹介では、「マーラーを語る
名指揮者29人へのインタビュー」(ウォルフガング・シャウフラー著、
天崎浩二訳、音楽之友社、2016年)を取り上げています。

http://www.hicareer.jp/inter/hiyoko/325please-not-now.html

お時間がございましたらご一読いただければ幸いです。
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潔く止める [日々の暮らし]

何か新しいことを始めたとします。
開始当初は真新しさもあり、自分のやる気も
高い状態にありますので、せっせと取り組むものです。
英語学習やダイエットを始め、日常生活の
色々な場面でそうした状況は発生します。

けれども飽きてしまったり、熱意が冷めてしまったり
というのも、これまた人間ならではです。私も
一時のマイブームが去ってしまうと、
周囲から呆れられるぐらい、そのことから
遠ざかってしまいます。

そうなると「止めてしまったこと」への罪悪感が
生じなくもありません。せっかくここまで
続けてきたのに、どうして止めちゃったのかなあと
思ってしまうのですね。継続力のない自分が
情けなくなったり、周囲への手前、ばつが悪い
という思いもあったりします。

ただ、生きていく上では「潔さ」も必要だと
私は考えます。何かにトライしてみて、ダメだと
思ったら、撤退のタイミングも大切だと思うのです。

いやだなあ、困ったなあと思いながらズルズル続けていても
良いことはありません。そういうときは、周囲への
遠慮や恥などはあまり考えず、「自分が本当はどうしたいのか」
という基準で行動することも求められると思います。

「潔さ」も勇気なのですよね。
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コラム更新のお知らせ [各種連載]

「柴原早苗先生のワンランクアップの英語表現」が
アップされました。第100回は民話などを語源とする
フレーズをご紹介しています。

http://blog.issnet.co.jp/?cid=12

ご興味がありましたらご一読いただければ幸いです。
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ことばの重み [日々の暮らし]

CNNニュースでもアメリカと北朝鮮の間の緊張状態が
報道されています。言葉の応酬が続いており、
緊迫した状況を訳すことは、個人的にも苦しいものです。
このまま世界はどうなってしまうのか、本当に平和を
維持できるのだろうか。そのような思いが去来します。

AFN(米軍放送)をラジオで聞いていると、
在日米軍やアジア太平洋で活動を続ける軍の活動が
告知ニュースとして流れます。先日耳にしたのは、
軍事演習に関する内容でした。詳細は聞きそびれたのですが、
軍の関係者が次のように発言していました:

To look every day as the last day of peace.

「毎日を平和最後の日として見る」

非常に重みのあることばです。

人間というのは、とかくfalse sense of securityを
抱きがちです。「自分だけは大丈夫」「日本なら大丈夫」
という、根拠のない安心感です。四方を海に囲まれているから
でしょうか?それとも、現在紛争が起きている世界の各地からは
距離的に離れているからでしょうか?

数年前の大震災のとき、避難するか否かが人々の生死を
分けました。false sense of securityに陥るのではなく、
客観的に、そして大局観的に物事をとらえ、
噂やネット上の意見ではなく自らが考えていかなければならない。

そんな時代に差し掛かっていると私は考えます。
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