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予定変更する?しない? [日々の暮らし]

たとえば「あ、このセミナー、面白そう!」と
思って申し込んだとします。早朝シフトの後、
そのセミナーまで数時間ある場合、その合間をどこで過ごすかに
頭を悩ませます。

自宅へ帰るほどでもなし、かといって何時間も
カフェで仕事をするにも限界があります。
図書館、という手もあるのですが、運悪く休館日
ということもありえます。そうなると、私の場合、
選択肢としては「ジムへ行く」「マッサージサロンで
施術してもらう」などが出てきます。

運よく、「合間にできるアクティビティ」を見つけて
時間を効率よく過ごせれば、あとは当日もそのプランに従うだけです。
仕事→マッサージ→セミナーという具合に無駄なく過ごせれば
それに越したことはありません。

けれども、せっかく申し込んだセミナーも、
日程が近づくにつれて「どうしようかなあ」と
悩み始めることが私の場合あります。要は当初抱いていた
情熱が覚めてしまうというケースです。

せっかくセミナー参加証ももらい、直前の
マッサージ予約も済ませたものの、はて、どうしようと
考えてしまうのですね。

「でも肩こりだからマッサージは受けたいし」
「やっぱりセミナー、行った方が良いかなあ。
滅多にない機会だし」などなど、頭の中であれこれ
考え始めてしまうのです。

そして挙句の果てにはネットで「せめてマッサージだけでも
別の日に移せるかしら?」「他の日時で別の場所のサロンは?」
という具合に、あれこれ検索し始めてしまいます。

そうなのです。私の場合、こうして悩み始めると
どんどん時間ばかりが過ぎてしまい、泥沼化してしまうの
ですね。つまり、「予定変更しようかなあ」というのは、
こと私に関しては鬼門であり、最大の時間泥棒と化して
しまうのです。

そこで、こうすることにしました。

*とにかく一度でも興味を抱いて申し込んだセミナーというのは
自分がもともと関心のある分野である。
*そのセミナー単体だけを組み込んだ日程なら
キャンセルもあり得るが、抱き合わせでマッサージや
ヘアサロンなど「合間にできること」も
予約していたのであれば、原則として予定は変更しないこと。

このような基準を自分で設けることにしました。

後になってから予定を変更する・しないで迷い始めると
時間もロスしてしまい、精神的にもくたびれてしまいます。
自分なりの行動指針を設けることは大切だと思ったのでした。
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知ったかぶり [日々の暮らし]

私は父がクラシック音楽ファンだったこともあり、
幼いころから自宅では音楽が流れていました。
初めて本格的なコンサートに連れて行かれたのは
小学校4年生のときです。以来、クラシックの音色に
魅せられて今に至っています。

10代後半のころ、友人たちと音楽談義をしたことが
ありました。クラシックが好きな仲間たちです。
とある弦楽器のCDを聞きながら話していたのですが、
いずれも皆クラシックが大好きとだけあり、
大いに盛り上がりましたね。詳しい人は本当によく
知っていて、「演奏家の○○は、第2楽章の△△小節で
こういう弾き方をする」「この曲は、薬指の
指使いをこうすると、音に深みが出る」という具合に、
かなりマニアックになっていました。私も
音楽好きではありましたが、本格的なトークに
なっており殆どついていけません。もっぱら「へえ、そうなんだ~」と
のんきに反応していました。別の友人はひたすらニコニコしながら
聞き役に徹していました。日ごろからおとなしいタイプの
人でした。

別の日のこと。
たまたま同じグループで出かけた際、
BGMに珍しい音楽がかかっていました。クラシックでは
あるのですが、あまり聞いたことがない曲です。
日ごろから薀蓄を披露している友人たちも曲名を知らない様子。
「これって誰の曲だろう?」と疑問に思っていたところ、
過日、聞き役に徹していたおとなしい友人が、静かな声で
「たぶん○○の△△って曲だと思うよ」と述べたのでした。

確かにその通りでした。

日ごろから静かで、めったに自分の知識をご開陳しない友人で
あっただけに、そのインパクトは大きいものでした。
以来、「若手評論家」を自認する仲間たちからはも
尊敬を集めるようになったのです。

人間というのは、自分が知り得たことを人に喋りたく
なってしまう生き物だと思います。特に若いころというのは、
人から注目を集めたい、「すごい~」と言われてみたい
という思いもあるのでしょう。にわか評論家のように
ムズカシイ用語を並べて知識披露をすることがあります。
ついつい「知ったかぶり」になってしまうのでしょうね。

けれども、「能ある鷹は爪を隠す」という通り、
本当に物事を深く理解している人というのは、
目立とうとしません。人に崇められることを
目的に知識を得るのではなく、もっと純粋な気持ちで
教養を身につけようとしているのでしょう。

若いときに出会った、あのおとなしい友人の存在は
今も私の心の中で印象に残っています。
そのことを思い出すたびに、学びにおける謙虚さと
控えめさがいかに大切か、襟を正したくなるのです。
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コラム更新のお知らせ [各種連載]

「通訳者のひよこたちへ」第323回がアップされました。
『学びに正解はない』というタイトルです。
書籍紹介は、「3万冊の本を救ったアリーヤさんの大作戦
―図書館員の本当のお話」(マーク・アラン・スタマティー作、
徳永里砂訳、国書刊行会、2012年)です。

どうぞよろしくお願いいたします。

http://www.hicareer.jp/inter/hiyoko/323.html
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思い込みのスペル [日々の暮らし]

9月になり、我が家の近所でも秋の花が咲いています。
中でもスクッと垂直に伸びて美しい色を見せてくれるのが
彼岸花。曼珠沙華とも言いますよね。私はさほどお花に
詳しくないため、心惹かれる花を見かけるたびに
画像検索をかけては調べるようにしています。

先日はスーパーの生花コーナーで秋の花束を
買いました。自宅に戻り、花瓶を用意していたところ、
ラッピングの端に文字が見えます。
何かしらと覗いてみたところ、お花の名前が書かれて
いました。英語でgerberaと書かれています。

ガーベラのスペルをここで初めて知りました。
私は今までてっきりgarberaと思い込んでいたのです。
gの後はaではなく、eだったのですね。

調べてみると、gerberaはドイツ人の医師Gerberの名に
ちなんでつけられていたのですね。原産は南アフリカです。
日本語では「アフリカ・タンポポ」とも言うそうです。
日本への渡来は大正初期とのことです。

さらに調べてみると、ガーベラは英語で他にもTransvaal Daisyや
Barberton Daisyと言うそうです。Transvaalは南アフリカ共和国の
北東部にある旧州の名前。BarbertonはTransvaal州にある
街の名前です。

いずれの地名もグーグルで画像検索をかけると美しい写真が
たくさん出てきます。いつか行ってみたい場所がまた一つ
増えました。思い込みのスペルのお陰で旅気分です。
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テキスト発売のお知らせ [各種連載]

翻訳と解説に携わっております「NHKニュースで英会話」、
最新号(2017年10月号)が発売されました。
お時間がありましたらご覧いただければ幸いです。
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解釈の違い [英語]

ここ数週間、ラフマニノフの交響曲第2番をよく聞いています。
この曲に初めて触れたのはロンドンで留学していたころ。
修士試験も終わり、論文も提出し終えて一息ついていた時でした。
「これで大手を振って休みを満喫できる!」と思い、
ロンドンのオックスフォード・ストリートから少し北にそれたところにある
CDショップへ出かけたのでした。

店内で流れていた美しいメロディに聞き惚れていると、
視界の片隅にNOW PLAYINGのプレートが見えました。
カウンターの上にそのCDが置いてあったのです。
近づいて見たところ、曲名はラフマニノフの交響曲第2番。
演奏はBBCウェールズ・ナショナル管弦楽団、
指揮は尾高忠明さんでした。

私は指揮者のマリス・ヤンソンスさんが大好きで、
ラフマニノフの2番も持っています。最近はこのCDを
メインに聞いているのですが、ふと、他の指揮者の解釈も
気になり、早速You Tubeで探してみました。

検索すると、実にたくさんアップされていましたね。
オーケストラも様々、指揮者名も色々と出てきます。
聞いてみると、同じ曲なのにまったく異なる印象を
受けることもわかりました。私はヤンソンスの速度に
慣れていた分、他の指揮者ではのんびり過ぎるという
印象を抱いたものもありましたし、楽器の強弱も
異なります。「わ~、ここでティンパニの音がこれほど
鳴るとは!」という発見もあったのです。

曲の解釈というのは、もちろんスコア通りの
演奏こそするものの、指揮者によって誤差は
出てくるのですよね。これは通訳や翻訳も同様です。
音楽であれば、作曲家が伝えたいことを最大限くみ取るのが
指揮者であり、オーケストラでしょう。
通訳者も、話者のメッセージを把握して、最大限、
目的言語に置き換えるのがその使命ということになります。

通訳者によって訳語に微妙な差が現れるのと同様、
音楽の解釈もしかりなのだと改めて感じたのでした。
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チベット語 [日々の暮らし]

先日、とある本を読んでいた際、ダライラマ法王のことが
出てきました。その中で、チベット語についての記述も
あったのです。著者がいかにチベット語に魅了されているかが
綴られているものでした。

どのような言語なのかしらと気になり、早速
地元の図書館からチベット語教本を借りてきました。
CD付です。

テキストを開いてみましたが、チベット文字はまったく読めません。
が、幸いカタカナが振られていますので、学習しやすい
テキストになっていました。私は今回、チベット語の「音」に
むしろ興味を抱いたため、本はスキップすることにして、
CDのみに集中することにしました。

我が家にはリビングにCDステレオがあるのですが、
「大きい音量にして密室空間で聞く」となると、
実は車の中の方が良いのですね。そこでカーステレオに
CDを挿入して運転しながら聞いてみました。

チベット語を耳にするのは生まれて初めてだったのですが、
とても穏やかな発音の言語に聞こえました。
類似性を敢えてあげるなら、韓国語のようにも
聞こえます。また、単語によっては日本語と似ているものもあり、
特に数字の1から10までは日本語とほぼ同じに聞こえました。
空耳で日本語の名字に聞こえるような単語や、
チベット語の名詞が日本語の動詞に聞こえるようなものも
ありましたね。

こうしてみると、世界にはたくさんの言語があるのだと
改めて思います。地元図書館ではCDを借りることができるため、
今後はこの出版社の他言語シリーズも手にしてみたいと思います。

・・・ちなみに通訳者の習性なのか、運転しながらでも「音」が
出てくると、ついシャドーイングしてしまいます。
自分の知らない言語というのは、本当にシャドーイングが
難しいのですね。初心者の苦労を改めて感じたのでした。
あ、でも運転しながらのシャドーイングは、集中力散漫に
なりますので、オススメいたしません・・・。
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基準や価値観はむずかしい [日々の暮らし]

通訳者のアウトプットをどう評価するか。
これは永遠の課題だと私は感じています。
すべての単語をもれなく拾い、きちんと目的言語に
訳出するというのも一つの考えです。
通訳者が勝手に取捨選択してしまえば、それは
通訳ではなく「編集」になりかねません。
あるいは自分の一方的解釈を追加した場合、
それは「創作」にもなり得るのです。
聞き手の理解を第一に考えれば考えるほど、
どこまで訳すかという悩みが付随することになります。

○×式テストのように、「こう訳せば正解」「これは不正解」
という基準ができるタイプの仕事であれば、
ここまで迷うことはないのでしょう。けれども、
そうはいかないのが異文化間コミュニケーションである
「通訳」なのです。

もっとも、この悩みは通訳やコミュニケーションに限ったことではありません。
人間個々が抱く価値観についても同様です。
Aさんにとって良しとされる価値基準も、Bさんから見れば
受け入れられないということもあり得ます。
「まあ、そこまで気にしなくても」と自分が思えるようなことも、
他者から見れば「とんでもない」と解釈されることも
あるわけです。

そのギャップをどう埋めるかは、即答できるものでないかも
しれません。ではどう対処するか?具体的な方法および
考えられる展開としては以下がありうると私は感じています。

(1)とことん自分の価値観を相手に主張する。受け入れてもらえなくても
妥協してもらえるまで徹底的に唱える。

→うまく妥協点が見いだせれば、多少の進歩にはつながる。
ただし、大きな対立あるいは亀裂になる恐れあり。

(2)「受け入れてもらえない」と最初から諦め、相手への説得はしない。
ただし自分のペースはひそかに維持する。

→対立を避けることはできるが、現状の変化は生じないため解決は難しい。
ただ、自分の信念は曲げずにいられる。

(3)最初から相手の価値観を全面的に受け入れる。

→対立回避は可能。ただし、自分のポリシーは放棄することになる。

結局、この中でどれがその時点の自分にとって
受け入れやすい状況であるか。それを見極めることに
なるのでしょうね。

いずれにせよ基準や価値観というのは、なかなか
難しいものです。だからこそ、人は悩みというものと
一生付き合っていくのだろうなあと思います。
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有言・不言・実行・不実行 [日々の暮らし]

たとえばテレビで紀行番組を見たとき。
「あ~、いいなあ。行ってみたいなあ」と
思うことがあります。あるいは、興味深い美術展のポスターを
目にした際、「いつか行こう」とつぶやくことも
あるでしょう。憧れているものや事に対して、
「いつか」「~したい」と人間は思うものなのですよね。

ただ、こうした「思い」をどうするかが
実は大切なのではと最近思うようになりました。
と言いますのも、いつもいつも「いつか○○する」「そのうち~したいなあ」と
口にしているばかりで実践できないというケースがあるからです。
それには以下の2つのパターンがあるのではと思います。

パターン1は、口癖でついつい願望を声に出すというもの。
「いいなあ」「こうできたら楽しいだろうなあ」という
自分の希望や熱望を、まずは口にするタイプです。
もちろん後に実践もしますが、とりあえず「言っておく」というパターン。

一方、パターン2は、実は口にこそすれ、さほど欲してはいないタイプ。
グループなどで話している際、その場で話題を作る
という感覚で、「~したいなあ」「いつか○○しよう」
など、とりあえずトピックとして述べるパターンです。
内心とりたてて実践する意思がない、というケースです。

最近私は「ことばを生業とする以上、自分の本心と
口から発する言葉をきちんと意識しよう」と思うように
なりました。つまり、なるべく自分の考えに忠実でありたいと
願うようになったのです。思ってもいないようなことを
軽々しく口にしては、それこそ「言葉の無駄遣い」であり、
他者の感情を無駄にしてしまうと思うようになったのです。

そう考えると、「有言・不実行」というのは一番私にとって
避けたいものであり、本当に自らの気持ちに正直であるならば、
「不言・実行」こそ、大事なのではととらえています。

「積読している本は、いつか読むから」
「行きたいと思っていた○○へは、そのうち出かけよう」

こうしたことを口にしておいて何もしないと
かえって自分に嘘をついているようで、嫌なのですね。
本当に読みたいなら公言せずとも読み始める、
本気で出かけたいならば大々的にPRしないで、さっさと出かける。

要は「静かに実践する」ということを意識していきたいと
最近は思っています。

・・・と書いていること自体が「有言・不実行」に
ならないよう、心を強く持たなければ・・・!
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失敗からどう前進するか [日々の暮らし]

仕事であれ日常生活であれ、「あ~あ」という感情に
見舞われることがあります。要は「失敗してしまった!」
という、何とも言えないあの感覚です。
「避けることができたかもしれなかったのに」と考えれば
考えるほど、その失敗を結局は引き起こした自分が
嫌になってしまったり、タイミングの悪さに
自己嫌悪に陥ったりしてしまうのですね。

時間というのは巻き戻すことができませんので、
失敗してしまった事実自体は致し方ありません。
たとえ嫌でも苦々しく思っていても、そのことを
否定することは不可能です。

ではどうするか?

私は日記を毎日つけているのですが、そのノートに
なぜ失敗したかを細かく書き出します。
この作業は、自分の失敗に至るまでの道筋を
再度たどることになります。ですので、決して気持ち良いこと
ではありません。「失敗」という帰結点に向けて
再び歩むわけですので、自分がどのような行動や決断を
経た結果、あのような無様(?)なゴールに到着したかを
もう一度「生きる」ことになります。なかなかハードです。

ただ、この作業をすることで、一つ一つのその段階における
自分の判断ミスが、より見えてくるのですね。
そうなればしめたもの。「行程」を書き終えたら、
次は「どうすべきであったか」を列記します。
これが、次回同じような状況に直面した際、
新たな行動路線となります。

こうした作業を一通り終えたら、全体を再読して
再確認です。これで「教訓」を頭に叩き込みます。

あとは気持ちの回復法を考えるだけ。
具体的には、

(1)教訓を得たら、過去の失敗自体は反芻しない
→失敗した、あの時の気持ちを思い起こして落ち込まないため

(2)気持ちを切り替えるべく、笑顔で過ごす
→教訓を胸に前向きになれるよう、自分を笑顔にさせて前進をめざす

このように意識しています。
すんなりとこうしたことがまだできないからこそ、
日々鍛錬です。
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