【追悼】遠山豊子先生 [英語]
日ごろ私が指導している通訳スクールよりメールが届き、
同校顧問を務められた通訳者の遠山豊子先生がお亡くなりに
なられたことを知りました。
遠山先生との思い出はたくさんあります。
かつて同スクールで受講生として学んでいたころのこと。
何とか頑張って同時通訳科に進級したのですが、
周囲は優秀な方々ばかり。当時は二人一組で先生が
教鞭をとっておられ、確か週2回のクラスだったと
記憶しています。
あの時代の「学校」というのは、義務教育であれ外部スクールであれ
今とは全く違う指導方法がとられていました。
スパルタ的な厳しい授業だったのです。
今でこそ「褒めて伸ばす」が称えられていますが、
当時はめったなことでは褒められないばかりか、
人格否定も当たり前でした。でも、当時は「そういうもの」
だったのですね。時代の流れとともに人の価値観は
変わってくるのです。
私が在籍したそのクラス。
遠山先生ももう一人の先生も厳しかったのですが、
私自身は「通訳になりたい」という強い思いがありました。
ですので、厳しさはさほど気にならなかったのですね。
特に遠山先生はユーモアを交えた叱咤激励が
素晴らしかったのです。私の訳出にかなり
辛辣なコメントを仰っても、ついクスリと笑いたく
なるような言葉が添えられていました。
「ん?ここで私、笑って良いのかな?でも
先生は本気で注意してくださってるし」
という場面が何度もあったのですね。
一方、スクール・ライブラリーから先生の講演会の
カセットテープ(←時代ですねえ)を借りたこともあります。
通訳者になるための心得についてでした。
その中で、通訳現場にどのような装いで行くかについて
先生は以下のように述べておられたのです:
「通訳現場には全財産の宝石をジャラジャラと
身につけて行かないこと!」
先生の言い回しがとにかくおかしくて、一人
カセットデッキの前で大爆笑してしまいました。
その後90年代に私はロンドンのBBCで働いていたのですが、
偶然にも先生がバース大学の短期集中講座で講師を
務められており、久しぶりにお目にかかることが
できました。すっかりご無沙汰していたにも関わらず、
覚えていてくださり、感激したことを懐かしく思い出しています。
多くの受講生から慕われた先生でした。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
同校顧問を務められた通訳者の遠山豊子先生がお亡くなりに
なられたことを知りました。
遠山先生との思い出はたくさんあります。
かつて同スクールで受講生として学んでいたころのこと。
何とか頑張って同時通訳科に進級したのですが、
周囲は優秀な方々ばかり。当時は二人一組で先生が
教鞭をとっておられ、確か週2回のクラスだったと
記憶しています。
あの時代の「学校」というのは、義務教育であれ外部スクールであれ
今とは全く違う指導方法がとられていました。
スパルタ的な厳しい授業だったのです。
今でこそ「褒めて伸ばす」が称えられていますが、
当時はめったなことでは褒められないばかりか、
人格否定も当たり前でした。でも、当時は「そういうもの」
だったのですね。時代の流れとともに人の価値観は
変わってくるのです。
私が在籍したそのクラス。
遠山先生ももう一人の先生も厳しかったのですが、
私自身は「通訳になりたい」という強い思いがありました。
ですので、厳しさはさほど気にならなかったのですね。
特に遠山先生はユーモアを交えた叱咤激励が
素晴らしかったのです。私の訳出にかなり
辛辣なコメントを仰っても、ついクスリと笑いたく
なるような言葉が添えられていました。
「ん?ここで私、笑って良いのかな?でも
先生は本気で注意してくださってるし」
という場面が何度もあったのですね。
一方、スクール・ライブラリーから先生の講演会の
カセットテープ(←時代ですねえ)を借りたこともあります。
通訳者になるための心得についてでした。
その中で、通訳現場にどのような装いで行くかについて
先生は以下のように述べておられたのです:
「通訳現場には全財産の宝石をジャラジャラと
身につけて行かないこと!」
先生の言い回しがとにかくおかしくて、一人
カセットデッキの前で大爆笑してしまいました。
その後90年代に私はロンドンのBBCで働いていたのですが、
偶然にも先生がバース大学の短期集中講座で講師を
務められており、久しぶりにお目にかかることが
できました。すっかりご無沙汰していたにも関わらず、
覚えていてくださり、感激したことを懐かしく思い出しています。
多くの受講生から慕われた先生でした。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
2021-09-02 10:12
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